コミュニケーション・ブレイク・ダウン


子供たちと遊んでいると、彼らがかまってほしいあまりに僕にパンチ等を放つことがある。彼らは僕が憎いのではなく、コミュニケーションを取りたいだけなのだろう。子供は伝えたいことがあっても、言葉を知らないか、伝え方がわからないので、そうなってしまう

もちろん、大人になれば、そんなことはしないのだが…、フィジカル・グラフィティでは、あえてそういったコミュニケーションまでの退行行為をしようと思う

人は嘘をつく生き物だ。ときに言葉ほど虚しいものはない

誰かに言われた言葉に傷つけられたときや、あるいは自分で自分に貼りつけたレッテルが重いときには、ひたすら原始的な感覚に戻るのもいいかもしれない

そして他人と練習することは、――実際にスパーリングすることにせよ、近くで練習するのを見るにせよ、――動きの規則性の破壊に役立つ

人間の動きというものは、自分では自由に動いているつもりでも知らず知らずのうちに規則性をもってしまうものである。試しに、10ケタの数字をランダムにいってみようとしても、とても難しくどこかで同じ数字がつづいてしまったり、同じ羅列になったりする

自分ひとりの練習というものは得意なパターンを身につけるのには向いているが、それだけではよほどの客観性や自己分析能力がないと、どうしてもワンパターンや独りよがりに陥りやすい。その結果として生まれる動きの規則性を見破られたら、とても不利だ

それを解決する方法として必要なのが自分とは違う規則をもつ人、他人である

スパーリングというものは、ひとりでの練習のように自分の身体と対話する余裕はないものの、相手により変化する自分を発見するのに役立つ。あるいは、他人の練習方法を間近で観察することから、自分の練習に取り入れやすそうなことを学ぶこともあるはずだ

フィジカル・グラフィティの目指すものは、規則性ではなく乱数(ランダム)である

これらの練習を積み重ねることは、また副作用的にこういうことを我々に問うてくる

「個性とは何だろうか?」ということだ。我々が安易に個性と呼んでしまうものの正体も、ひょっとしたら単なる癖にすぎないのかもしれない。ねがわくば、付け焼刃の個性ではなく、練習を通じて発見する硬質な個性をみにつけてほしい。それは、一生の財産となる

あるいは、逆の発想として、いっそのこと無個性でもいいのではとも言える。ちょうど、時代の流れ的に「個性的でなければならない」というプレッシャーを誰もが感じているように感じるので、個性的なんて言葉がそもそも幻想なんだと開き直ったほうが楽になるかもしれない。もはやこうなると無個性のほうが、かえって個性的ともなるという、逆説的な現象がおこる



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