これは、直接的な技術というわけではないのだが、僕がフィジカル・グラフィティの可能性を模索していくうえで、モチベーションとしている意志を紹介します。ひょっとしたら、僕だけでなく他の人でも、練習意欲の向上につながるかもしれないので、参考までに
村上春樹の『羊をめぐる冒険』のなかでは意志とは、こういう言葉で書かれている
「空間を統御し、時間を統御し、可能性を統御する観念」
フィジカル・グラフィティのもつ意志の射程を考えてみた
空間
フィジカル・グラフィティの空間は国境を越える
オリンピックやワールドカップを見ればわかるように、もともと身体とはインターナショナルなものではあるが、フィジカル・グラフィティでは、さらに利点がある
体格や筋肉に依存した身体技法ではないので、人種をこえている。つまり、生まれつきの能力などは吹き飛ばせるということだ
そして何より、フィジカル・グラフィティで求められるのは、個人という概念である。それについては、「格闘技だから個人戦になるのは当然」というような単純なものではないことは、これまで紹介した技術を知っている人はわかっているはずだ。国民、人種、民族、宗教上の集団性が及ばない世界がそこにはある
時間
フィジカル・グラフィティの時間は永遠である
まだ、フィジカル・グラフィティは誕生して間もない概念なので、それ以外の身体技法の永遠性に関するこんなエピソードを紹介します
宮本武蔵は自らの兵法をまとめた『五輪の書』のなかで、足裏にたいする体重のかけ方に関して、体重はかかとにかけるようにして立つようにと書いている(フィジカル・グラフィティでは足裏に万遍なく体重をかけるようにするので武蔵の考えとは違うのだが、そのことは措く)
この技術は300年の時を越えることになった
ミルコ・クロコップがK-1から総合格闘技に転向したときに、それまでのつま先立ちから、かかとに体重をかけた立ち方、ベタ足状態に変化していた。ボクシング的な跳ねるようなフットワークは使えなくなったものの、体重を足裏にかける面積が増えたことにより軸が強くなり、安定感を獲得していたのだ
夢を壊すようだが、ミルコのインタビューをチェックしたかぎりにおいては『五輪の書』を読んだという記事は確認できてない。おそらく彼は、実際の練習中に相手のタックルにたいして簡単に倒れないような身体さばきをすることで、あの身体技法を獲得していったのだろう
しかし、武蔵の技術の確かさが時間を越えて実証されたことにかわりはない
残念ながら、僕は武蔵のように殺人の経験はないものの、フィジカル・グラフィティの現代における有効性については、『五輪の書』の比ではないと思っています
可能性
フィジカル・グラフィティの可能性に関しては、最初に「戦闘・ダイエット・依存対策・コミュニケーション・自分探し・劣等感を吹っ飛ばす・アヴァンギャルド」と紹介した
だが、いままで紹介した技術全てが可能性であり、そもそもあまり可能性のイメージを限定したくはない。限定は、可能性の対比でもあるし、まだまだ誰も気づいていないフィジカル・グラフィティの可能性がきっとあると信じています
とはいえ、どんな人間にも好みはあるし、とりわけ現代社会においてフィジカル・グラフィティが大きな役割を担うであろう分野は、僕の目には見える
ある一つの分野を際立たせてしまうことにより他の可能性を見過ごされてしまうリスクは承知の上で、それでも強調したいことがある
それは「コミュニケーション
の可能性だ
そもそも武術というものが、宿命的に背負っているものがコミュニケーションである。自分の攻撃が全て当たるのなら、こんなに楽なことはないが不意打ちを除けば――それもまた戦略のひとつであるが――多くの場合相手は防御するだけでなく反撃までしてくるだろう。当然、今度は相手の攻撃にたいする反応をしなくてはならない…というように、そこには〝自分のしたいことはなかなか出来ないにもかかわらず、相手によって動かされてしまう自分?というものが存在する
それこそがコミュニケーションの正体であり、それを単なる不自由ではなく、簡単にはいかないからこそ面白いと、逆転の発想に転じることの出来る図太さを身につけてほしい
なにより、僕の紹介するフィジカル・グラフィティの技術を身につけようとする行為自体が僕とコミュニケーションをしているともいえる
そして、実際の練習では自分自身の身体と対話することになり、それもまたコミュニケーションである
さらに、複数の人間を集めて練習すれば、そこにも新たなコミュニケーションが生まれることになるだろう
終わることのないコミュニケーションの可能性はどこにでも存在している
総括として、フィジカル・グラフィティのもつ意志、――空間を統御し、時間を統御し、可能性を統御する観念――の射程は永遠である